~創立の芽生え~

 

社会生活が高度に発達すればする程、社交クラブの持つ社会的意義は大きくなります。本クラブが設立された大正12年ごろ、大阪市ではその商業的特性に起因して、事業的色彩の濃厚なクラブはすでにいくつか設立されていましたが、純然たる社交クラブ本来の使命を持ったクラブは少なく、これの実現を要望する声が高まっていました。

当時、東京では福沢諭吉氏が大学を卒業した学生のため社会に出てからの情報交換の場として創立 した「交詢社」があり、社交クラブとして運営されていました。清交社の創立メンバーである高石氏 (元毎日新聞社長)は交詢社の会員で、その気運の中ぜひ大阪の地にも社交クラブを設立したいとい う意志のもとに集まった、設立メンバー数人が、当時としては近代的大建築として世間の人々を驚か せた堂島ビルヂングの竣工が近いことに着目して、時代の要求に最もふさわしいクラブ会館を設ける ことを計画し、9階をクラブ会館に充てる旨の快諾と、全面的な協力の申し出を堂島ビルヂングより 得たので、ここに本クラブの基礎が確立されました。

 ~創立実行委員~
 その後クラブ創立に賛成、加盟を申し出る者が増加し
 大正12年3月23日創立実行委員会が開催されました。


 ~創立総会~
 大正12年4月26日、中央公会堂において創立総会を開催し、規約の制定、役員の選挙が行われました。

また、その席上で、クラブに冠すべき名称につき審議の結果、純粋の社交クラブにふさわしい呼称

「清交社」を正式社名として採用することが決定しました。

 

 ~開館~


創立に関する諸般の事務手続きがいよいよ進捗してきたので、同年5月23日クラブ事務室を堂ビル9階に移転するとともに、来館者のため堂島ホテルと食事契約を交わし、開館準備を整える一方、家具什器などの調達や模様替工事を急いだので、大正12年7月15日午後3時当社の永久に記念すべき開館式が挙行されました。

この日の出席社員は450名に達し、まず高石代表理事の挨拶についで、佐多大阪医科大学長および大阪府知事代理藤沼警察部長の祝辞があり、関一大阪市長の発声で清交社の万歳を三唱して式を終わった後、余興の河合ダンスや模擬店などに一同歓を尽くして午後7時半盛大裡に閉会しました。

 ~戦後と最近のクラブ~

終戦後混乱期におけるクラブの姿は実に心細い限りのものであり、水道は出ない、電話は通じない、電灯もない、食堂はあっても材料がないといった真に困苦の極みにあったにもかかわらず、来館社員の姿は日毎に増えだして、再建の兆しが見えだしました。一時10指に余る大阪市内の各層の社交クラブも戦災や接収などのため姿を消し、普通の会館を有するものは当社だけと言っても過言ではありませんでした。昭和23年、創立以来理事長の職にあった高石真五郎氏が、白川朋吉氏に理事長の席を譲られました。

ついで昭和25年、大西耕三氏が白川氏の跡を継いで理事長に就任されましたが、惜しむべし大西理事長は昭和32年1月3日、64才の若さで急逝されました。ここにおいて創立当時常務理事として当社の運営に参画されていた山本為三郎氏が後任理事長に推されました。同氏は熱心に当社の運営に力を尽くされ、連続9期にわたり理事長職を全うされましたが、41年2月4日病気のため逝去されました。

しかしその後、大阪ガス株式会社会長井口竹次郎氏が、新理事長として後任を引き受けることを快諾され、昭和41年5月13日、正式に理事長に就任されました。

昭和45年5月、井口竹次郎氏は、連続4期にわたる理事長の職を辞任されたので、後任理事長に昭和32年以来常務理事として社務を掌理されてきた甘糟勇雄氏が選ばれました。以来2期にわたってその重責を全うされましたが、昭和47年5月眼病治療のため惜しくも引退、理事長の席を大阪ガス株式会社相談役(元社長)藤阪修美氏にゆずられた。同時に新制度による日勤の常務理事に毎日新聞大阪本社編集顧問安田良和氏が専任されました。

藤阪理事長は、4期にわたる大任を果たして51年5月に退任。後任理事長に元大阪高裁長官・元大阪府公安委員長荻野益三郎氏が選出されました。同時に安田常任理事は一身上の都合で辞任されました。

荻野理事長は、親睦と交流を第一義に運営に当たり55年2月退任。この後9代目理事長に伊藤忠商事株式会社相談役(元社長・会長)越後正一氏を迎えました。同時に越後理事長は、当社創立以来のメンバー山口定亮氏を理事長代行者に指名しました。

越後理事長は、終始クラブのレベルアップに力を注がれましたが、59年2月退任、第10代理事長の席を株式会社毎日放送会長坂田勝郎氏に譲られました。

坂田理事長は、クラブの活性化と財政基盤の強化を推進し、2期4年の任期を満了。後任理事長に関西大学理事長・久井忠雄氏が選任されました。

久井理事長は会員の増強と財政基盤の確立に力を注がれ、毎年6月1日の創立記念日に会員増強協力者を表彰(会員増強賞の贈呈)を行うなど新しい制度を取り入れ成果を挙げられましたが、任期途中の平成3年8月24日惜しくも病のため急逝されました。

この間平成2年5月、空席になっていた日勤の常務理事に遠藤渉理事が選任されました。久井理事長急逝のため常任理事の吉本晴彦氏が後を継いで理事長代行に選ばれ、平成4年2月までの残任期間、その職を全うされました。

吉本理事長代行退任の後、アサヒビール株式会社会長村井勉氏が後任理事長に選任されました。

その後日本経済のバブル崩壊と震災による会員の減少を余儀なくされ、これに対処すべく4分野にわたる特別委員会を設置して、新しいクラブ作りの活性化と会員増強運動を展開してきましたが、長引く景気低迷の中、村井理事長の決断により、過去7回にわたる当社の運営にかかわる諮問委員会の大集成として、21世紀の清交社を考える諮問委員会を委嘱され、本社団の運営機構に答申案を諮られたうえ、平成11年2月の定時社員総会に会館移転案を問うた結果、賛成多数で会館の移転が決定しました。

ここに、76年の歳月を経て会館移転が行われ、平成11年9月、大阪市北区の大阪全日空ホテル内に新会館が完成し、伝統と歴史ある社交クラブとして、21世紀に向って鋭意努力をつづけています。

大正12年 高石真五郎(元毎日新聞社社長)を中心に創立計画がスタートする。
大正12年3月23日 創立実行委員会を開催。
大正12年4月26日 中央公会堂において創立総会を開催、規約の制定、役員の選挙を行う。
クラブの名称を「清交社」と決定。
大正12年5月23日 クラブ事務室を堂島ビルヂング9階に移転、来館者のため堂島ホテルと食事契約を交わし、開館準備を整える。
大正12年7月15日 午後3時 開館式。出席社員は450名。
高石代表理事の挨拶、佐多大阪医科大学長および大阪府知事代理藤沼警察部長の祝辞があり、関一大阪市長の発声で万歳を三唱。式終了後には、余興の河合ダンスや模擬店などの催しがあり、午後7時半に閉会。
昭和23年 創立以来の理事長高石真五郎氏が白川朋吉氏に理事長の席を譲る。
昭和25年 第3代理事長に大西耕三氏が就任。
昭和32年 第4代理事長に山本為三郎氏。
昭和41年5月13日 第5代理事長に大阪ガス株式会社会長井口竹次郎氏。
昭和45年5月 第6代理事長に甘糟勇雄氏。
昭和47年 第7代理事長に大阪ガス株式会社相談役(元社長)藤阪修美氏が就任。
昭和51年5月 第8代理事長に元大阪高裁長官・元大阪府公安委員長荻野益三郎氏が選出される。
昭和55年2月 第9代理事長に伊藤忠商事株式会社相談役(元社長・会長)越後正一氏が就任し、山口定亮氏を理事長代行者に指名。
昭和59年2月 第10代理事長に株式会社毎日放送会長坂田勝郎氏。
昭和63年 第11代理事長に関西大学理事長久井忠雄氏。
平成3年 久井理事長急逝のため常任理事の吉本晴彦氏が理事長代理に。
平成4年2月 アサヒビール株式会社会長村井勉氏が第12代理事長に。
平成10年~ 日本経済のバブル崩壊や阪神大震災などにより社員が減少、これに対処すべく4分野にわたる特別委員会を設置して、クラブの活性化と社員増強運動を展開。
21世紀の清交社を考える諮問委員会が、定時社員総会で会館移転案を決定する。
平成11年9月 大阪市北区の大阪全日空ホテル内に新会館が完成。
平成20年3月 第13代理事長に元毎日新聞社副社長の迫田太氏が就任。
平成25年3月 第14代理事長にアサヒビールホールディングス株式会社相談役(NHK前会長)の福地茂雄氏が就任。